日々

すきなものやことを 大事にしていきたい

買うということ

身の回りのものを自分で整えられるようになったのはいつだろう。

20歳を越して、ひとり暮らしをした時にはまだそれができていなかったように思う。身の回りには誰かが選んでこしらえてくれたものばかりがあった。

 

東京に越して2年。

東京に住み始めてから、いい子ちゃんだった私は、実家に対しての忠誠心のようなものを捨てた。

連絡が来たら返すが、本当のことなんて何も言わなくなったし、どうしても自分の意思と家族の意思が合わないことがあると、こっそり自分の意思を通すようになった。

 

いつだったか、私は、身の回りのものをすべて捨て始めた。

ロフトベッド。ひとり暮らしのワンルームには大きすぎる32型のテレビ。衣装ケース。リサイクルショップで働く母がかなりの安価で買ってきた、自分の好みとは微妙に(或いは絶妙にかもしれない)ずれた服たち。生活雑貨もそう。こまごましたものではお皿、箸置き、なんとなく使っていたポーチ…

 

自分が明らかに「これが欲しいのだ」という意思を持って買ったのではなかったものを、これでもかというほど「捨てた」。

(譲るでもリサイクルショップに売りに行くでもなく、「捨てた」ことはこの一連の儀式の中でとても大切なことだったように思う。)

 

新調したものもあれば、そうではなく、私の生活から消えたものもある。

グレードアップしたものもグレードダウンしたものもある。

テレビなどは、新しく買ったものの方が画質も音質も悪く、(高い買い物なのに、失敗してしまった。あと1万円出してもう少しいいものを買えばよかった)とかなり後悔しているし、マットレスの下に敷こうと思っていたすのこベッドなるものは、勝手が悪くて購入から2週間で捨てた。こたつは、どうやら私にとって必要なものではなかったらしく、捨てた後は買い直していない。

グレードアップしたものは、歯ブラシ置きや箸置きなど、100円でも買えるが500円出してお気に入りを持っていたいようなものばかりだったように思う。

 

身の回りのものを自分の意思が通っているもので固めていくことは、私にとって自立そのものだった。身の回りにあるものを自分で決められるということは、自分の人生も自分で決めていいということと、私にとっては同義だった。

 

身の回りのものが自分の欲しいものである程度固まり、幾度も模様替えをして、やっと、これが自分の家だと胸を張って言えると思えた時、ふと、実家に連絡しようと思った。

 

テレビを捨てたことは咎められたが、久々に「自分の意思で」家族と連絡ができたのは、何年ぶりだっただろう。

 

私は何かを買うとき、このことを思い出す。

どんなに安価なものでも、自分の意思のないものを買うということを続けていると、自分の人生がぼやけていく気がする。

今話題のミニマリストなどではないし、一見不要なものもまだまだある家だが、安価でもスペックが低くとも、愛着があるものに囲まれた今の生活を、とても愛おしく感じる。